----------------------------------------------------------------------
----------------------------1100〜1150--------------------------------
----------------------------------------------------------------------

########## バシル (?-?) ##########

ブルガリアの大主教。
元は修道士であったが、ペータル・アセン兄弟の反乱の際に大主教に叙階され、ペータルに戴冠した。
1204年にローマ教会とブルガリア教会が教会合同を執り行うと、首座大司教の地位を与えられた。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 49  12  60 EEEE ++++外+ ++++++



########## ペータル2世 (?-1197) (在位1185-1186,1196-1197) ##########

第二次ブルガリア帝国の建国者。元の名はテオドルス。
11世紀初頭にブルガリアはビザンツに併合され、以降ブルガリアの領民には重税が課せられていた。
1185年のビザンツ皇帝イサキオス2世の即位後に、弟のアセンとともにコンスタンティノープルへ赴き、
税の軽減とプロノイアの付与を要求した。
しかし、要求は却下され、兄弟の一人はビザンツの官吏から平手打ちされる侮辱を受ける。
このビザンツの対応が反乱の起爆剤となりテオドルス兄弟は挙兵、1186年にタルノヴォを首都とする第二次ブルガリア帝国を建国し、
テオドルスはビザンツ風の名前をペータルに改めた。
建国後はダニエプル川沿いの領地を併合し、バルカン山脈を越えて東トラキアに進出した。
1186年夏にイサキオス2世自らが大軍を率いて北ブルガリアに攻め込むとブルガリア軍はダニエプル川の北に退くが、
同年秋にクマン族の後援を受けて反撃に転じ、独立を勝ち取る。
ビザンツと和約を結んだ後は精力的な弟のアセンに譲位し、自らは北東ブルガリアとドブルジャを治めた。
後にアセンが暗殺されると復位するが、直後に内紛のために暗殺された。
(参考文献:東海大学出版会『ビザンツ帝国史』・平凡社『東欧を知る事典』・創土社『ブルガリアの歴史』(ケンブリッジ版世界各国史))


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 63  61  55 BCDE 農+++++ +++火+伏



########## イヴァン=アセン1世 (?-1196) (在位1186-1196) ##########

ブルガリアの皇帝。ペータル2世の弟。
ブルガリア独立運動で兄とともに中心的な役割を果たし、1186年に兄から譲位された。
即位後は数度にわたってビザンツ国境で掠奪を行うが、1196年にビザンツ皇帝アレクシオス3世に唆された
甥イヴァンコによって暗殺された。
(参考文献:東海大学出版会『ビザンツ帝国史』・平凡社『東欧を知る事典』・創土社『ブルガリアの歴史』(ケンブリッジ版世界各国史))


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 59  67  56 CCBE ++建+++ +突+++伏



########## ドブロミル=フリス (?-?) ##########

ブルガリアの軍人。
1187年にマケドニアに派遣され、ペータル2世没後に同地のストリモン地区で独立する。
ビザンツ皇帝・アレクシオス3世の孫娘・セオドラを娶りビザンツの傘下に入るが、
カロヤンに説得されてブルガリアに帰順した。
(参考文献:東海大学出版会『ビザンツ帝国史』・恒文社『ブルガリア 風土と歴史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 51  59  48 CBCE ++++++ +++火++



----------------------------------------------------------------------
----------------------------1151〜1200--------------------------------
----------------------------------------------------------------------

########## カロヤン (1168?-1207) (在位1197-1207) ##########

ブルガリアの皇帝。ペータル2世の弟。
1188年に人質としてコンスタンティノープルに送られた。
ペータル2世が暗殺されるとタルノヴォに逃亡して帝位に就き、ドブロミル=フリスなど混乱期に
ブルガリアから独立した勢力を取り込んでビザンツと戦った。
ブルガリア北西部のマジャール人をハンガリーに追い、1202年にはビザンツと和約を結んで領域を確定する。
1204年にコンスタンティノープルが陥落、バルカン半島にラテン人国家が成立すると、一方的にブルガリアの支配を主張した
ラテン人に対して敢然と戦いを挑んだ。
ラテン勢力との戦争の際には外交手腕を発揮し、カトリック教会と協定を締結、ブルガリアがローマ司教の最高権威を認めることを条件に
西部の国境を保障させ、後顧の憂いを無くしている。
結果ラテン皇帝ボードゥアン1世・テッサロニキ王ボニファッチョを戦死させ、奪われたマケドニア地方の旧領を再征服するが、
テッサロニキ包囲中に味方の裏切りによって落命した。
協定の後もブルガリアでは東方教会が依然として信仰されていたが、ローマ教皇がブルガリアに干渉することはほとんどなかった。
(参考文献:東海大学出版会『ビザンツ帝国史』・恒文社『ブルガリア 風土と歴史』・
創土社『ブルガリアの歴史』(ケンブリッジ版世界各国史))


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 53  77  74 CCAE ++++外+ 機突+++伏



########## アレクシィ=スラフ (?-?) ##########

ブルガリア帝国の領主。メルニコス(現メルニク)を統治した。
カロヤンの死後に暗愚なボリルが即位すると帝国に見切りをつけ、1207年に独立しラテン帝国と同盟を結んだ。
翌年にラテン帝国の臣下となり、アンリ1世の娘と結婚し、将来のブルガリア皇帝の地位を約束された。
後にアンリが没してラテン帝国の政情に陰りが見えると、宗主国をイピロス専制公国に乗り換えた。
(参考文献:東海大学出版会『ビザンツ帝国史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 49  47  55 DCCE 農+++外+ ++++++



########## イヴァンコ (?-?) ##########

ブルガリア帝国の王族。アセン1世の甥。
ビザンツ皇帝アレクシオス3世の扇動に乗ってアセン1世を殺害するが、ペータル2世の報復を恐れてコンスタンティノープルに亡命した。
アレクシオス3世の孫娘セオドラを娶り対ブルガリアの司令官に任ぜられるが、1198年前後にロドピ地区で独立する。
ブルガリア皇帝となった叔父のカロヤンと同盟してビザンツ帝国と干戈を交え、イヴァンコの排除を図るアレクシオス3世は
偽りの和約を申し出た。
イヴァンコは再度アレクシオス3世の姦計に陥り、会談の場で誅殺された。
(参考文献:東海大学出版会『ビザンツ帝国史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 41  60  17 BCCE ++++++ +++火++


########## ボリル (?-1218?) (在位1207-1218) ##########

ブルガリアの皇帝。カロヤンの甥。
カロヤンの暗殺に加担し、帝位を簒奪した。
しかし、彼の即位に反対する大貴族はブルガリアから独立し、カロヤンの未亡人と結婚することで権威の強化を図るも、
大貴族の支持は得られなかった。
相次ぐ反乱とラテン帝国の侵入によって国力は衰退し、ラテン帝国への反撃を試みるが1208年のフィリッポポリス付近の会戦で大敗する。
また、国内には異端のボゴミール教を隠れ蓑とした反対勢力も存在し、ボゴミール教の弾圧を行うも確たる成果は無かった。
後にハンガリーと結び、1213年にはローマ教皇の仲介によってラテン帝国と和解し婚姻を結ぶが、
翌年のセルビア遠征に失敗したことがボリルの立場をより危うくした。
国難に乗じてキエフに亡命していたアセン1世の子・イヴァン=アセン2世がブルガリアの帝位を要求、
1218年にブルガリア国民・キエフの支持を得たアセン2世は首都タルノヴォに入城、ボリルは盲目にされ廃位された。
こうしてアセン2世は即位し、ブルガリアの目覚しい復興が始まった。
(参考文献:東海大学出版会『ビザンツ帝国史』・恒文社『ブルガリア 風土と歴史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 50  46  31 DCBE ++++++ ++++++



########## ドブロミル=ストレス (?-?) ##########

ブルガリア帝国の王族。ボリルの兄弟。
ボリルの即位後、セルビアの援助を受けてプロサコスで独立する。
1211年にテッサロニキ王国の摂政・ユスタスとの戦闘に敗れて勢力は衰退、プロサコスは同盟国である
イピロス専制公国の支配下に入った。
(参考文献:東海大学出版会『ビザンツ帝国史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 43  54  41 CDCE ++++++ +突++++



----------------------------------------------------------------------
----------------------------1201〜1250--------------------------------
----------------------------------------------------------------------

########## ヤコフ=スヴァストラフ (?-1277) ##########

ブルガリア帝国の領主。ロシア系の出身。
北西地方を治め、1261年にブルガリア本国がハンガリーとの戦争に敗れると、ハンガリーに臣従した。
1272年頃にハンガリーから独立し、ヴィディンを本拠としてブルガリア皇帝を自称した。
一時はブルガリアに二つの政府が並立したが、コンスタンティン=ティフの妃・マリアによって
ヤコフは暗殺されたが、彼が殺害される直前に起きたイヴァイロの反乱で国内にはなおも混乱が続いた。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 51  52  50 CCCE ++建+++ ++++++



########## コロマン1世 (1234?-1246) (在位1241-1246) ##########

ブルガリアの皇帝。イヴァン=アセン2世の子。母はハンガリー系の王妃・アンナ=マリア。
幼少で即位したため、実権は持たなかった。
即位直後の1241年からブルガリアはモンゴル帝国の侵攻に晒され、モンゴル帝国の司令官である
バトゥへの臣従を余儀なくされた。
1245年にアセン2世の後妻・イレネによって毒殺され、代わってイレネの子であるミハイル2世(在位1246-1256)が帝位に就く。
しかし、政変に乗じたニケーア帝国の攻撃を受けて、セレス・アドリアノープル・サロニカ・ロドピ山脈方面といった
要地を失い、ブルガリアの衰退に拍車がかかった。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 38  26  41 DCDE ++++++ ++++++



########## コンスタンティン=ティフ (?-1277) (在位1257-1277) ##########

ブルガリアの皇帝。元はスコピエの統治者であった。
セルビア王・ステファン=ウロシュ1世の甥にあたり、イヴァン=アセン2世の娘・イリーナを娶っていた。
ミハイル2世没後の内乱で王位の継承権を主張し、叔父ウロシュ1世の助けを得て即位した。
即位直後にイリーナと離婚、テオドルス2世の娘と再婚してニケーア帝国と同盟を結ぶ。
こうして背後を固めた上でハンガリーに攻め込むも大敗し、逆にハンガリーに領地を奪われる羽目に陥った。
ミカエル8世=パレオロゴスがビザンツ帝位に就くと、ミカエル8世に幽閉されたヨアンネス4世(テオドルス2世の子。コンスタンティンの義弟)を
救出するため、ラテン帝国復興の大義を掲げてシチリア王国と同盟した。
1274年に開催されたリヨン公会議でローマ教会とビザンツ教会の合同が取り決められると同盟は消滅、
ビザンツに奪われた北トラキア・黒海沿岸部の回復はならなかった。
イリニが没すると彼はビザンツとの講和を考え、彼がミカエル8世の姪・マリアを娶ることで
ビザンツとの関係は改善するかと思われた。
ミカエル8世が婚資のアンギアロス・メシンヴリアの引渡しを渋ったことで交渉は決裂、1272年に両国の間に再度戦争が起こる。
しかし、ビザンツと結託していたキプチャク=ハン国の有力者・ノガイの圧力で撤兵せざるを得なくなり、
アンギアロス・メシンヴリアの請求権も放棄した。
対ビザンツ戦に前後して、かつてハンガリーに降伏した領主ヤコフ=スヴァトスラフがブルガリア皇帝を僭称、
ブルガリアは窮地に追い込まれた。
1277年にこうした状況を憂う豚飼いのイヴァイロが挙兵、自らイヴァイロの討伐に向かうも戦死した。
(参考文献:東海大学出版会『ビザンツ帝国史』・恒文社『ブルガリア 風土と歴史』)


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 46  53  47 CDCE ++++++ ++++++



########## イヴァイロ (?-1280) (在位1278-1280) ##########

ブルガリアの皇帝。元は豚飼いであった。
1270年からブルガリアは外圧と内訌に苦しみ、こうした中でイヴァイロは「神の宣託を受けた」と言い、
1277年に義勇兵を組織して挙兵する。
寄せ集めの軍勢ながらもブルガリアに駐屯していたキプチャク=ハン国軍・親征に出向いたコンスタンティン=ティフを撃破し、
1278年にはタルノヴォを包囲した。
ブルガリアの混乱を好機と見たビザンツ皇帝・ミカエル8世がイヴァン=アセン3世を傀儡として帝位に就けることを画策すると、
彼は政府と妥協し、コンスタンティン=ティフの妃・マリアと結婚し正式に帝位に就いた。
彼の即位に不満を持つ貴族は多く、モンゴル軍との戦いに出向いた際にアセン3世によって帝位を奪われるが、
逆に反乱軍を撃破してタルノヴォを再包囲し、アセン3世をコンスタンティノープルに放逐する。
しかし、反乱軍がゲオルギ=テルテルを担ぎ出して再起すると、流石に独力で反乱を鎮圧できず、宿敵のキプチャク=ハン国に助けを求める。
彼の軍に手痛い被害を被った、ブルガリア方面の統治者であるノガイは排除を主張、その主張は通り彼は暗殺された。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 28  82  53 ACDE 農+++++ +++火城伏



----------------------------------------------------------------------
----------------------------1251〜1300--------------------------------
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########## ゲオルギ1世=テルテル (?-1307or08) (在位1280-1292) ##########

ブルガリアの皇帝。クマン族の後裔。
イヴァイロに反発する貴族に担がれて帝位に就き、アンジュー家・テッサリアのヨアニスと結んでビザンツ帝国に対抗した。
彼の即位に反対する封建貴族は独立したために領土は縮小し、アンジュー家がシチリアを失うと
ビザンツ・セルビアと和議を結ぶことになった。
1285年にキプチャク=ハン国のノガイに攻め込まれると娘をノガイに差し出して臣従を誓うが、
1292年に再度ノガイの攻撃を受けると帝位を捨ててビザンツに亡命する。
しかし、かつての仇敵であるゲオルギ1世を受け入れることを躊躇したビザンツによってアナトリアの地方都市に軟禁され、
1301年に子のトドル=スヴェトスラフが対ビザンツ戦で勝利を収めると、捕虜と引き換えにようやく釈放された。
帰国後は国政に干渉することなく、トドルの庇護下で悠々自適とした生活を送った。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』・東海大学出版会『ビザンツ帝国史』・
ウィキペディア(http://en.wikipedia.org/wiki/)『George I of Bulgaria』)


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 47  50  44 DCBE ++++++ ++++++



########## スミレツ (?-1298) (在位1292-1298) ##########

ブルガリアの皇帝。元はブルガリア中部のスレドナ=ゴラの領主であった
ゲオルギ1世の即位に反発し、1280年頃に弟のヴォイシル・ラドスラフとともに独立する。
ゲオルギ1世逃亡後にノガイによって皇帝に擁立されるが、実権はノガイに握られ、セルビアと婚姻を結ぶも、
窮状を打破するには至らなかった。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』・ウィキペディア(http://en.wikipedia.org/wiki/)『George I of Bulgaria』)


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 51  49  54 CDDE ++++外+ +++火城伏



########## トドル=スヴェトスラフ (?-1322) (在位1300-1322) ##########

ブルガリアの皇帝。ゲオルギ1世の子。
幼少時は人質としてビザンツ帝国に預けられていた。
1299年にキプチャク=ハン国の内戦でブルガリアを支配していたノガイが殺害されると、ノガイの子・チャカを
ブルガリアの帝位に就けた後殺害、チャカの首をキプチャク=ハン国に送り自ら即位する。
キプチャク=ハン国から褒章としてドナウ川デルタ・ベッサラビアを受け取り、臣従関係を解消して国土の再統一に臨んだ。
交渉の末に叔父・エルティミルのクルン僭主国を併合、親ビザンツ派の貴族を排除して秩序をある程度まで回復した。
カタルーニャ傭兵団がビザンツ帝国内を荒らしまわると好機に乗じてバルカン半島南部に進出、
1308年にビザンツと和議を結ぶまでの間にメシンブリア・アンギアロスといった黒海沿岸の港湾都市を獲得する。
敵対していたセルビア・黒海交易を望むヴェネツィアと修好し、彼の治世にブルガリアの国力は大きく回復した。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』・東海大学出版会『ビザンツ帝国史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 67  63  79 BBCD +商++外登 +突++城+



########## ヨアン=ククゼル (1280-1360) ##########

ブルガリアの聖職者。デュラキウムの出身。
ブルガリア・ビザンツの教会音楽の改革に活躍した。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 56   9  45 EEEE +++文++ ++++++



########## バサラプ (?-1352) (在位1317-1352) ##########

初代ワラキア大公。バサラブ・バッサラブとも。
14世紀以前のルーマニアにはルーマニア人の行政機関が存在せず、ルーマニアはスラブ人・ハンガリー人・モンゴル人の支配下に置かれていた。
14世紀初頭のキプチャク=ハン国・ハンガリー王国の混乱に乗じたルーマニア人諸侯はバサラプを指導者に選出し、
カルパチ山脈とドナウ河岸間の諸地域を統合し、ワラキア公国を建設した。
建国後はブルガリア皇帝と結び、ビザンツ・セルビアと戦い勢力を拡大する。
1330年にかつての宗主国ハンガリーが攻め込むとこれを撃退し、宗主国からの完全な独立を達成した。
(参考文献:恒文社『ルーマニア史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 62  74  65 BCBE +商建+++ +突+++伏



########## ゲオルギ2世=テルテル (?-1322) (在位1300-1322) ##########

ブルガリアの皇帝。トドル=スヴェトスラフの子。
ビザンツ帝国の内訌に乗じてビザンツ領に攻め込み、フィリッポポリスを占領した。
一時はアドリアノープルまで進むも、1322年に彼が急逝すると獲得した領地は奪還された。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』・東海大学出版会『ビザンツ帝国史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 43  70  64 BCBE +商++++ ++++城伏



########## ミハエル3世=シシュマン (?-1330) (在位1323-1330) ##########

ブルガリアの皇帝。
元はヴィディン僭主国の君主であったが、ゲオルギ2世没後に貴族に推されて帝位に就いた。
ビザンツ皇帝アンドロニコス2世とアンドロニコス3世の内訌では両者を交互に支持し旧領の回復を図るが、
1328年にアンドロニコス3世が内訌に勝利すると、アンドロニコス3世の威圧に押されて軍を退いた。
また、同じ頃にセルビアがマケドニアに進出する動きを見せると、セルビアとの戦争に備えてビザンツと和議を結んだ。
1330年にキュステンディルでブルガリア・セルビアは激突するが、援軍が到着しないうちに攻撃を受けたブルガリア軍は壊滅し、
ミハエル3世も戦いの中で負った傷が原因で没した。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』・東海大学出版会『ビザンツ帝国史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 60  58  45 CDBE +++++登 ++++++



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----------------------------1301〜1350--------------------------------
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########## ニコラエ=アレクサンドル (?-1364) (在位1352-1364) ##########

ワラキア大公。
バサラプの長子。父の死後王位を継ぐ。
ブルガリア・セルビア・さらにハンガリー王族と政略結婚を行って周辺諸国と友好を結ぶ。
こうして後顧の憂いを無くした後、ハンガリー王ラヨシュ1世とともにタタールと戦い、彼らの支配地域を解放した。
また、クルテア=デ=アルジェシュの大主教教会に代表されるような国内の教会の建立にも力を入れ、
コンスタンティノープルの東方正教会を支援、ワラキアの宗教機構を確立した。
(参考文献:恒文社『ルーマニア史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 64  62  69 BCCE ++建+外+ ++++++



########## イヴァン=ステファン (?-?) (在位1330-1331) ##########

ブルガリアの皇帝。ミハエル3世の子。
ミハエル3世の前妃である母アンナはセルビア王家の出身であることから、セルビア王ステファン=ウロシュ3世によって王位に就けられた。
しかし、即位の経緯から貴族の支持は得られず、またミハエル3世の後妃テオドラの兄弟であるビザンツ皇帝アンドロニコス3世の
攻撃を受けて国は衰退した。
こうした状況の中、1331年にクーデターによってイヴァン=ステファンは廃位され、彼は母と共にセルビアに亡命した。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』・東海大学出版会『ビザンツ帝国史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 45  44  37 DCDE ++++++ ++++++



########## イヴァン=アレクサンダル (?-1371) (在位1331-1371) ##########

ブルガリアの皇帝。ミハエル3世の姉妹の子。
元はロヴェチの僭主であったが、イヴァン=ステファンに反発する貴族らによって皇帝に擁立された。
キプチャク=ハン国の支援を得て北トラキア・ザゴリア・黒海沿岸部といったブルガリア南部をビザンツ帝国から奪回し、
1331年にルソカストロの戦いでビザンツ皇帝アンドロニコス3世に大勝した。
以後はセルビア・ビザンツと婚姻を通じて和約を結び、分裂状態にあったブルガリアの統一を目指した。
安定期が訪れたブルガリアは芸術が発展し、1356年には『アレクサンダル帝の福音書』が完成した。
しかし、1364年にオスマン帝国がフィリッポポリスを占領するとオスマン帝国の侵入に備えなければならず、
同時期にハンガリー・ドブルジャの攻撃を受けて領土を喪失した。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』・東海大学出版会『ビザンツ帝国史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 70  66  65 CCCE +商+文++ 機+++++



########## ボグダン (?-?) (在位1359-?) ##########

モルドヴァの国王。元はマラムレシュ地方の貴族であった。
14世紀以前のモルドヴァはタタール人の支配を受け、14世紀初頭にタタールの支配を逃れるも
ハンガリーの支配を受けていたが、バサラプの活躍によりモルドヴァ独立の気運が高まる。
1352年から53年にかけてモルドヴァに国境が制定され、対タタール戦で功績を挙げたマラムレシュの
ドラゴシュ大公がモルドヴァの君主に任命された。
しかし、ハンガリーとの繋がりが強いドラゴシュ一族とマラムレシュ併合を図るハンガリーに対して
ルーマニア人は不満を持ち、ボグダンは彼らの先頭に立って抵抗運動を指導した。
マラムレシュでの独立運動には失敗するが、モルドヴァに移りなおもハンガリーに反抗し、
モルドヴァの地方貴族達により反ハンガリー運動の指導者に選ばれた。
その後ハンガリー・セルビア両国の混乱に乗じてマラムレシュ大公バルクを追放し、
1359年にハンガリーの軍勢を破りモルドヴァ公国を成立させた。
(参考文献:恒文社『ルーマニア史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 62  70  67 BBCE +++++登 +++++伏



########## イヴァン=ストラツィミル (1324?-?) (在位1356-1396) ##########

ヴィディン僭主国の王。イヴァン=アレクサンダルの子。
ブルガリアの統一を図る父アレクサンダルによって、1356年にヴィディンの王に封ぜられた。
1365年にハンガリーにヴィディンを占領され捕らわれの身となるが、1369年にワラキア・ドブルジャの力を借りた
アレクサンダルによって助けられた。
アレクサンダル没後はオスマン帝国に臣従を近い、弟シシュマンと異なりセルビアに組せずオスマン帝国に忠誠を誓い続けた。
そのため長い間ヴィディンは独立を保ち、セルビア・ワラキアに組した他の僭主国が滅亡する中、最後まで存続した。
ハンガリー王ジギスムントが対オスマンの十字軍を立ち上げるとオスマン帝国への臣従を破棄してジギスムントに従うが、
1396年のニコポリスの戦いでキリスト教勢力が大敗し、ブルガリア再興の望みは潰える。
翌年にスルタン・バヤジット1世によって彼はブルサに送られ、彼の子のコンスタンティンが跡を継いだ。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』・ウィキペディア(http://en.wikipedia.org/wiki/)『Ivan Stratsimir of Bulgaria』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 47  53  59 CDCD ++++外+ ++++++



########## ヴラディスラフ=ヴライク (?-1377) (在位1364-1377) ##########

ワラキア大公。ニコラエ=アレクサンドルの子。
父の死後王位を継いだ。
父同様に教会との関係を強化し、土地所有貴族の離反を防いだ。
また交易にも力を入れ、ルーマニア初となる貨幣の発行によって自らの権力を示した。
1377年にハンガリーとの戦いで戦死した。
(参考文献:恒文社『ルーマニア史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 67  54  60 BCCE +商++++ ++++++



########## イヴァン=シシュマン (1350?-1395) (在位1371-1395) ##########

ブルガリアの皇帝。イヴァン=アレクサンダルの子。
イヴァン=ストラツィミルの異母弟にあたる。
即位直後にオスマン帝国に臣従を誓い、貢納を行った。
セルビアのラザルに説かれて一時セルビアと同盟しオスマン帝国と戦うが、1388年に東ブルガリアがオスマン帝国の攻撃を受けた際に
再度臣従を近い、セルビアから離反した。
1390年代にバルカン諸国の団結が失われるとオスマン帝国はブルガリアに侵攻し、1393年に首都のタルノヴォはオスマン帝国の包囲を受けて陥落、
ニコポルの要塞に立て篭もっていたイヴァン=シシュマンは臣従国の皇帝としてしばしの間帝位に留められた。
1395年にイヴァン=シシュマンはバヤジット1世によって処刑され、彼の領土はオスマン帝国に編入された。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』・ウィキペディア(http://en.wikipedia.org/wiki/)『Ivan Shishman of Bulgaria』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 65  51  44 DCCE ++++++ ++++++



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----------------------------1351〜1400--------------------------------
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########## ミルチァ老公 (?-1418) (在位1386-1418) ##########

ワラキア大公。
彼がワラキアを統治していた時代、東欧はバルカンに勢力を伸ばすオスマン帝国に脅かされていた。
モルドヴァ・ポーランドといったオスマン帝国に対抗しようとする東欧の諸国と友好を結んで
後顧の憂いをなくし、ドブルジャを併合して版図を拡大した。
また、銀貨の発行と貿易の振興を行って資金を調達し、オスマンに対抗できる軍隊を編成した。
オスマン帝国のバルカン進出に対抗するべく1389年のコソヴォの戦いに参戦するが敗北し、オスマン帝国に臣従を誓わされた。
敗北してもなおオスマン帝国をバルカンから駆逐しようとし、国内でオスマン帝国と結託した反乱分子が挙兵すると直ちに乱を鎮圧、
1394年にはロヴィネ平原の戦いに勝利しオスマン帝国の勢力をドニエプル川南岸に退かせた。
しかし、翌年のニコポリスの戦いで大敗し、ドブルジャを引き渡すことで再度の臣従を許されるが、降伏を不服とした息子ヴラドによって一時廃位される苦境に立たされた。
1402年のアンカラの戦いの後の混乱には、ハンガリー・セルビアと連合してオスマン帝国の王子ムサを帝位に就かせ、
またブルガリアの反乱を援助することによってドブルジャの奪回に成功した。
国内の秩序を取り戻したオスマン帝国がバルカンへの侵攻を再開すると、講和を結び貢納を行うことを取り決めるが、
オスマン帝国に対し臣下の礼はとらなかった。
(参考文献:恒文社『ルーマニア史』・東海大学出版会『ビザンツ帝国史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 65  76  74 BBBE +商++外+ +突+火+伏



########## コンスタンティン (?-1422) (在位1396-1422) ##########

ヴィディン僭主国の王。イヴァン=ストラツィミルの子。
バヤジット1世没後の混乱に際してはワラキア・ハンガリーと結び独立を図る。
甥のフルジンと共に反乱を指揮し一時は独立を勝ち取るも、メフメト1世がオスマン帝国を再統一すると
セルビアに亡命した。
1422年にセルビアで客死し、彼の死をもってブルガリア全土はオスマン帝国に併合された。
(参考文献:恒文社『ブルガリア 風土と歴史』・ウィキペディア(http://en.wikipedia.org/wiki/)『Constantine II of Bulgaria』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 44  57  52 BDDE 農+++++ +++++伏



########## アレクサンドル善良公 (?-1432) (在位1400-1432) ##########

モルドヴァ公。
ミルチァ老公の支持を得て王位に就く。
ポーランド・リトアニアと結びドイツ騎士団と交戦し、1410年にグリュネワルド・1422年にマリエンブルグで大勝を収める。
また、ハンガリー王ジギスムントがモルドヴァに攻め込むと、その都度これを撃退した。
彼の代にモルドヴァは隆盛を迎えるが、その死後国内抗争により弱体化した。
(参考文献:恒文社『ルーマニア史』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 61  73  60 BBBE ++++外+ +突+++伏



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----------------------------1401〜1500--------------------------------
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########## ヴラド=ツェペシ (1431-1476) (在位1448,1456-62,76) ##########

ワラキア公。悪魔公ブラド=ドラクルの子。ツェペシは「串刺し公」を意味する。
1444年に弟のラドゥとともにオスマン帝国の人質となる。
父と兄が暗殺されると人質から解放され、オスマン帝国の支援で公位に就く。
しかし、その直後にトランシルバニア公フニャディに敗れモルダヴィアに亡命、その後トランシルバニアに戻り
フニャディの支援の下再びワラキア公に就く。
国内の大貴族とドイツ商人の力を抑え中央集権化を図り、1459年オスマン帝国への貢納を拒否、
この後オスマン帝国の軍勢が度々侵入してくるが、ゲリラ戦法を用いて撃退した。
1462年オスマン帝国は弟ラドゥを支援し、ツェペシに反感を持つ大貴族達を糾合して内部崩壊を狙う。
ツェペシはトランシルバニアに亡命するが、ここでハンガリー王マーチャーシュに捕らえられ12年の間幽閉された。
なお、幽閉生活中に最初の妻が自殺をし、その後マーチャーシュの妹マリアと再婚している。
のち釈放され再び位に就くが、オスマンが支援する対立候とオスマンの軍勢に敗れ戦死した。
国内外の敵に対し、串刺し刑という残虐な行為で知られ、19世紀のアイルランドの作家ブラム・ストーカーによる
『ドラキュラ伯爵』のモデルになったことで知られる。
しかし、彼にまつわるこのような残忍な逸話は、彼の幽閉中にマーチャーシュが誇張して流布した
ものだともいわれる。
(参考文献:平凡社『東欧を知る事典』・ウィキペディア(http://en.wikipedia.org/wiki/)『ヴラド・ツェペシュ』・
ウィキペディア(http://en.wikipedia.org/wiki/)『マーチャーシュ・コルヴィヌス』)


 政  戦  智 兵科   内特     戦特
 57  78  51 ACBD ++++++ +++火+伏